当社責任者の本多は38年前に初めてネパール訪れたのをきっかけに、会社設立とともにネパールの首都カトマンズにあるプロパカール孤児院(山の中に捨てられていたり、両親のいない男児を50名収容している孤児院)の孤児達へ35年以上にわたり援助を行っています。こちらでは、その活動を紹介します。
当社では、孤児院に寄付する傍ら、孤児院を出て進学を希望する孤児達を支援しております。現在25名の孤児達が高校・大学・大学院に在学又は卒業しています。現在18名が卒業、7名在学中、7名女児孤児たちの進学者の支援をしています。卒業後の進路は、2名が渡米、1名が高校の化学の教師、1名が美術工房入所、3名が会社勤務、1名フランス語通訳、1名が自営業を立ち上げ、3名が他国へ出稼ぎ等々・・です。
現在、2003年に孤児達自身の手で作ったNGO「Honda&Nepali Sahayagisansha(ネパール語で人のために尽くすの意)」を設立。以来、孤児達が中心となって進学を希望するプロパカールの孤児達の支援を行い当社はその金銭的援助をしております。
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▲本多とプロパカール孤児院の子供達 |
▲当社で大学に在学した孤児達
(左から3番目が本多) |
▲バザーで集まったお金を
孤児院に寄付 |
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2015年度から念願の女子孤児がトリブバン大学に進学しました。
左:Miththu(ミツ:19歳) 右:Deepa(デパ:20歳)の2名です。
Deepaは15年前に両親を失い、隣人に世話されていましたが、医学部はお金がかかるので世話が出来なくなり、我々が引き受けることになりました。将来は眼科医になる予定です。Miththuは経営学部です。
当社創立と同時に旅行業の他に何か人の役に立てる事をしたいと考え、インドの友人に相談したら、ネパールの男子(山に捨てられていた子供や両親を亡くした子供達)50名収容しているプロパカール孤児院を紹介され、訪れて以来10年間に渡り約500万円の寄付をしてきました。当時女児孤児はインド・タイ人に幼児売春として連れ去られることを聞き、女児孤児院を作ろうと、まず男児を教育させ教師にし、そこから女児孤児院をと考えておりました。
今年度にようやく念願叶い、女子孤児が大学に進学できました。引き続きバザーを続け、現在6名の進学者の支援をしてまいります。今後もご支援の程をお願い致します。
尚、2019年のバザーは1月27日(月)~2月1日(土)、市ヶ谷一口坂ギャラリーにて開催します。皆様のご協力を宜しくお願い致します。 |
※ 当社にて、随時本多が世界各国から仕入れたバザー商品販売中。
説明会、お立ち寄りの際にご購入可能です。
売り上げは東日本震災・ネパール孤児支援に寄付されます。 |
2011年11月22日付で、ネパール孤児支援の会から、東日本大震災孤児の教育支援金(小学生)として300万円を寄付しました。(すでに3月には義捐金として30万円を寄付。計330万円)未だ100名余りの震災孤児が支援を待っています。今後とも引き続き支援を続けたいと思います。
▲朝日新聞厚生文化事業団に直接持参しました ▲2011年11月30日付の朝日新聞28Pに掲載されました
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2010年1月14日、35年前に孤児院で初めて出逢い、当社が支援している孤児の最年長のニール・ネパリが、35歳で昨年やっと結婚ができました。今回、本多はニールのための結婚パーティーと、孤児達にお年玉を渡すためにネパールへ行ってきました。正直、毎年バンコクに一泊してのネパールへの旅は次第にしんどくなり、今回が最後、という思いで出かけました。しかし、滞在3日目、2年前に大学を卒業したラズン・ネパリが自分で作った店を見せたいからと迎えに来てくれました。2間程の小さな、自動車部品を売っている彼の店には、留守番をしていた6歳と2歳の兄妹孤児がいました。ラズンに尋ねると、私達がずっとプロパカールの孤児達を支援してきたのをみてきて、自分で生活できるようになったら自分もそうしたい、と常々考えていたとのことでした。今は両親のいない子を孤児院に入るまで世話しているとの事。思わず胸が熱くなりました。15人を大学に行かせ、やっとこのような考えをもつ子供が出てきた事をとても嬉しく思い、「今回で最後・・・」はどこかへ吹き飛んでしまいました。 |
ニール・ネパリと奥さん
ラズン・ネパリと妹孤児 |